昭和20年8月15日(16にちだったかもしれない) 国民学校1年生の級友たちが 
受け持ちの先生の伝言で 「神社に集まってね」と言った。

神社は、鳥居の前で、最敬礼をして通る所だったから
不思議な気もしたが 自由が嬉しくて まだ幼顔の残る
女学校出の 代用教員のもとへ みんなして集まったのでした。

その時 撮った二枚の写真が 手元に残り 敗戦後の日本で
子どもはどんななりをしていたかが分かる 証明写真になりました。

昭和20.8-2.JPG

半分くらいが 強制連行されてきた朝鮮人の子どもです。
先生は おやつに 大豆を煎って持って来てくれました。
 いまも美味しかったと記憶に残っています。わーい(嬉しい顔)

狛犬さんのテッペンに乗っているのは 級長です。

朝鮮人の子どもたちはやがて 列車に乗り 釜山港へと帰って行きました。
それから間もなく再び彼らは 祖国で南北戦争に巻き込まれて行ったのですね 

15日は 道の駅コンキリエで ユニセフ募金のために活動しました。
牡蠣人形.JPG

コンキリエのキャラ オーイ★スター君 と中国からの観光者が握手です。
ご本人に、写真掲載 了解済みです。
中国の方と.JPG


湧別町からの観光者・・写真掲載 了解済みです。
湧別さん.JPG

みなさんに 募金の協力いただきました。ありがとうございます。

 2014_08_16



戦争が終わりその年の秋 お琴を習わないかと母に言われました。
赤い錦織の小袋に お琴の小さい爪を入れて、同級生の松本よう子ちゃんの
家に行きました。

お琴の練習が終わると、よう子ちゃんが お父さんが唄っていると
「裏町人生」を蓄音機でかけてくれました。レコードも蓄音機も
初めて触れる異文化でした。
今で言う カルチャーショックを受けていました・・・

このことを書く前に、ネットで検索しましたので いま私は 多くの事を知っています。

此処では、そのこととは別に、国民学校一年生の私が感じたことを書きたいと思います。

多分 「妻恋道中や流転」なども聞かせて貰ったと思います。
でも なぜか 「裏町人生」が聞きたくて 何度もねじをよう子ちゃんに巻いてもらい
聞いたのでした。 全部覚えて 歌えるようになって
子どもがそんな歌を唄ってはいけないと、叱られました。

よう子ちゃんは 「お父さんは戦争で死んだの・・」と言うのです。
哀しそうでした。とても淋しそうでした。
お琴を教えて下さったのは 上原敏氏の妹さんだったと思います。
お母さんは 国民学校の先生でした。

よう子ちゃん一家との別れがいつだったのか お琴はようやく三本の指を
使う 「さくら さくら」に入っていました。
そのおばさんもお琴との別れも思い出すことが出来ません。

赤い小袋と お琴の爪と 裏町人生の歌が残されたまま 歳月が流れて行きました。

列島ウロウロ旅をしている時、秋田県大館にある「秋田犬の博物館」を訪れました。
帰り道、近くにある 秋田桂城公園を散策している時
上原敏の顕彰碑に出会いました。驚きと懐かしさで一杯でした。 
本名 松本力治とあり 彼女がなぜ松本性だったかを初めて知りました。

上原敏顕彰碑.JPG

よう子ちゃんは お父さん似でした。
色が白くて 涼やかなお顔をしていました。
よう子ちゃんには あきおちゃんという弟さんもいました。
国民学校一年生の記憶です。 間違いもあると思います。

この写真は 昭和20年8月15日か 16日に撮られたものです。
炭鉱町にある 国民学校一年生

昭和20.8.JPG

同級生ですが 此処にはよう子ちゃんはいません。
きっとクラスが違ったのでしょう。

8月15日が来る度に思い出す 哀しみ色した思い出です。

 2014_08_15




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