ちえみちゃん
沢山のおたより読んでいて みつけたものがあります。
ちえみちゃんと出会った あの病院の小児科の婦長さんからの

約束の道・・7でも書きました。

送った本は ふきのとうで同じ本が数冊あったもの たんぽぽ文庫も
協力してくれました。 あの時のちえみちゃんに読んで上げたかった本
など揃えて・・150冊を お手紙添えて送りました。

お礼の返事が来ました。(ようやく探し出したの・・)

 
******略******現在入院しています学童は 15名で、病気やけがで
2ヶ月~6ヶ月、3年、中には小学校1年から 中学校3年まで
入院生活を送り、昨年岩見沢の高校に入学した子も居ります。

「ひかり学園分校は」 昭和40年に登別温泉町立温泉小学校
特殊学級として 1学級認可開設され 翌年中学部認可、

昭和45年には、小学部3学級編成、中学部2学級編成となりました。

昭和51年に、登別市登別温泉小学校、中学校「ひかり学園分校」に
昇格されて、病気や怪我で入院している児童を
治療と併行して教育が受けられるようになっています。

ひかり学園は、図書もだいたい整っていて、読書週間には
感想文を書いたり、生徒も積極的に取り組んでいるようすですが

病棟ではそれらの設備も乏しく、
札幌の方から、「ふきのとう文庫」の事をお聞きしたことがあり、
お願いしたらどうかと スタッフの方と話し合っていました。

そうしている内に 学園の方に沢山の本が届き
病棟で保管してはどうかと相談があり、何か思いが伝わったように 驚きました。
喜んで病棟のプレイルームに置かせて頂きました。*****略*****

                    小児病棟婦長  石川 寛子

ちえみちゃん あなたと出会ったのは 昭和35~36年でしたね。
あなたの入院生活には間に合わなかったでしょう 
でも 確かなことは、第二のちえみちゃんや 私が其処にはいる
ということですね。 ちえみちゃんに再開出来たらいいなぁ・・・

********** ******

これを書きながら 小樽にふきのとう文庫が無くなったことが
とても残念に思えて来る。病気の子がいなくなったわけでは無い。

辛い闘病生活を余儀なくされている親子がたくさんいるのが現実だ。

****************

      小樽運河

奮闘する

中2の 子どもの嘆きの 編集後記がある。「ゴメン忘れていた。」
学校から帰ったらすぐタクシーに乗って運河へ行ったこと。
工事のおじさんに 「そこダメだよ ダメ 」って流行語になってしまいそう・・
怒られながら 表紙の運河を画いたこと。壊される運河がかわいそうだったこと
寒かったこと(2月16日水)
結局B4用紙 10枚を手書きしてくれた。m(_ _)m d(^_^;)b

文庫はいつも 子どもの手の中に有ったし、あると思う。
 2015_03_27



ちえみちゃん
出会った時、私はお姉さんでしたね。 そして文庫のおばさんになり
いまは おばあさんになり これを書いています。

ふきのとう文庫を夜の時間にすると 良い事だらけだったんですよ!
まず ボランティアの人が 主婦だけで無く 子どもから大人
それに お兄さん おじさんも参加出来ました。
クリスマスや七夕なんかは 夜の方が断然楽しいですよね。

     交通事の子
                    ワンクリックして読んで下さいね

「クリスマス・クリスマスって こっちはクルシミマスだよ」
って言ったちえみちゃんの言葉を忘れずにいました。
この記事にあるように クリスマスは感動しました。って書いてくれました。

お母さんが帰った後、布団を被って泣いていた ちえみちゃん。
小樽病院の中にも  病気で亡くなる子もいました。
次の文庫の日に行ってみると、髪の毛が無くなっている女の子も
いました。無菌室に入っていました。 ガラス越しに手と手を合わせました。
私は泣いてばかりいました。 

或る日 お母さんに「六花さん 泣かないで下さい」って言われて
はっとしました。
泣きたいのはお母さんで、その悲しみのこころや 言葉を
受け止めて上げる役目なんだと・・

1985年のクリスマスは こんな風でした。
同じように毎年 、中身やプレゼントの違いはあっても
季節毎のお楽しみ会は づーっと続けていったのでした。

**********

 小児科の先生がサンタさんになり、看護婦さん達がローソクを
灯した車を押しながら 病室を訪問 プレゼントが贈られました。
文庫からは若者達のアイデア一杯のクリスマスカードと
手作りの品も。。
つづいて 飾り付けられた会場では 看護婦さんの進行のもと

 看護婦さん挨拶

 中谷洋子さん挨拶

 大型紙芝居「アンパンマンとかぜコンコン」を
潮陵高校演劇部のメンバーと 中谷実孝くんが熱演

 手づくり紙芝居「子うさぎましろのおはなし」を
商業高校生のみなさんが 演じてくれました。

 オルガン演奏 入院中の小学生たちが
「猫ふんじゃった」と「美しい世界」を弾きました。とても上手でしたね。

 マジック 平間おじさんが中谷実孝君を助手に
紐と、紙と 風船のマジックをしてくれました。

 人形劇・・「いねむりサンタ」・・看護学生人形劇グループの
みなさん。 歌も入り  楽しかったですね。

  最後に「大きな栗の木の下で」と
「きよしこの夜」を全員で大きな声で歌いました。

     別の年のクリスマス

     ふきのとう

     少年・少女の ボランティア参加

     少年ボランティア
              ワンクリックして読んで下さいね。

ちえみちゃん いつかきっとと思ってさよならした 登別厚生年金整形外科は
新しい建物になって いまもあります。

つい先頃 小樽市立病院が オープンしました。でも小樽にふきのとう文庫は
もう再開しないでしょう。
小児科は 常勤医が一人と少ないスタッフ。 重い病気・長期の入院児は
他病院へ行ってもらう事になりました。

ちえみちゃん 長いこと書いてきましたが、あしたで終わりにしますね。 



 2015_03_27



さようなら小樽

1974年 3月  えぞをと六花は、失意の内に小樽を後にした。

春は遠く 厳しい季節だった。 すでに思い出になろうとしている
二つの文庫の数々の出来事が 私たちの家族の行く手を照らし続けてくれた。
大丈夫 行き先は間違えない 根拠の無い自信があった。


たんぽぽの灯は美浪翠さんと 宮口久子さんが 代々のお母さん達が  
引き継ぎ 現在に至る。

小樽ふきのとうは 中谷洋子さん 実孝くん 友美ちゃんと
お父さんが しっかりと受け継いでくれた。
友美ちゃんは 大学から札幌に就職 一児をもうけたことまで分かっている。

実孝君は 大学を出て 念願の高校・英語教師になり
数年前には 羅臼高校に赴任していた。結婚し子どももいる。
いまは どの地におられるのか・・・

私が去ったあと、中谷さんはご友人と共に 2006年3月小樽病院の閉鎖まで
実に32年間ものあいだ 「小樽ふきのとう」を支え続けて下さった。
豪雪、厳しい暑さ 嵐の日の夜 彼女は何を秘めて 
辛い子のいる病院へ 通ったのだろう・・一度お会いして聞いて見たい。
生きている内に・・。

**********************

季節毎の行事
ひなまつり こどもの日 七夕 クリスマスなどの行事が
とても楽しそうに、いきいきと文庫のお便りに書かれている。

小樽ふきのとう・・NO37・・1987年3月10日 より~
 ひなまつり  
文庫では 二月中におひな様作りを始めました。
折り染めに始まり 千雅子さんに型紙を切ってもらい
それぞれのユニークなおひなさまを作り上げました。

3月2日には幼い入院児たちに一日も早く全快しますようにと
石川さん考案のきれいなおひな様が贈られました。

小樽ふきのとう NO31・・1986年 5月5日 より~
こどもの日  
文庫は5日のこの日のために、若い人たちが先週から折り続けていた
兜と、べこ餅を贈り物に、幼い入院児とともに子どもの日を祝う
楽しい夜を持ちました。

早速に兜を被り、大喜びの子、つぶらな瞳を輝かせ、熱心に紙芝居を
楽しみ、紅葉のような手で拍手をし抱きついてくる子

反対に、ベッド訪問で病室へ入ったとたんに、人見知りで泣き出してしまい
若い世話人を戸惑わせてしまう子など 多種多様な親子の愛情に触れながら
若者たちと共に広い視野で物事を見る 心を育てていきたいものと
考えるこの頃です。               

文庫たよりから
潮陵高校生 商業高校生がボランティアに参加していることが分かります。

小樽ふきのとう NO33・・1986年8月8日発行 より~

七夕まつり
みんなが楽しみに待っていた七夕祭りを詰め所のみなさんと
点滴を受けながらのお友達も集まって、賑やかに行われました。
     司会は看護婦さん
     カメラマンは 中谷実孝君です。

 最初に看護婦さんが持ってきてくれたメトロノームで
リズムを取り中谷友美さんの書いた歌詞を見ながら
大きな声で 七夕さまを歌いました。

次は 看護婦さんの手作りの紙芝居「七夕さま」を
入院児の松岡さんと、とのおか先生の子どもさんと二人で
熱演してくれました。

池本文代さんと中谷友美さん二人で大風呂敷を持って
図書館から借りてきてくれた「優しい鬼と少年のお話し」の
大型紙芝居を 史江さん 五十嵐さん 池本さんそれに中谷姉弟で
頑張りました。

池本さんの手品  練習の成果充分
あっと驚くほどの出来映えでしたね。

次は文庫のお姉さん達が作ってくれた金銀のかんむりを
頭に載せ 詰め所で用意してくれた 、あかりを灯した提灯を持って
七夕様を歌いながら病棟を一周しました。

次はプレイルームの横のバルコニーでみんなそれぞれに
花火大会を楽しみましたね。
大きな花火は、先生が手伝って下さいました。
夜空に輝く束の間の花火すてきでしたね。

 最後はいよいよみんなが待っていたスイカを頂きました。
何せ「今夜だけは特別に食べてもよろしい」と許可をいただき
朝から楽しみに待っていたのですものね。
史江お姉さんと、中谷おばさんが汗だくで準備した西瓜
皆さんが喜んで食べて下さって とても嬉しかったです。

 その後 どうしても参加出来なかったお友だちにも
星の冠と、西瓜を届けて今年の七夕を終えました。

少し疲れてきました。つづきは 元気になってから書きます。

 2015_03_26



二つの文庫の交差は 色々な形で表れた。

たんぽぽ文庫の子どもたちは 明確な目的を持って 今度は東アフリカの難民の
子どもを救おうとしていた。

ふきのとう文庫では その事について話し合いが行われていた。
工作の時間 夜の文庫の時間に手作りを始めた。

1981年子ども市

啓介兄ちゃんは 北大生から参加
いまでは真駒内養護学校の先生だ。月日がたち
もうそろそろ退職かしら?

並樹君は 潮陵高校2年生・・小学生から行事には手品で参加。
私たちは彼を「ペテン師」と呼んでいた。彼は小学校の教師で
新人教師を教育する仕事をしている。

1981子ども市-1

当日 夜半から朝に掛けて雨だった。いかなることがあっても
行事は中止しないが 子どもとの約束。 子どもは必ず晴れると
疑わなかった。 雨の中、テントが張られた。 
(雨の時は、町内会館を確保していた。)
奇跡としか思えない 始まり近く太陽が突然出たのだ 

ふきのとう文庫は 当時小学校のボランティアが二名来ていた。
一人の子は 将来お医者さんになりたいと。
いま何処の病院にいるのかな?
その子らと 学級の先生、石塚美和ちゃん 付き添いのお母さんと
お店を開いた。

全部で14店舗あったが、実はふきのとう文庫の売り上げが1番だ
32、576円  トータルで246、649円の純利益が有り
東京のユニセフに 会計の浅川さんと 美浪君とが郵便で送ると
文庫便りに載っている。 全ては子どもの手で執り行われた。

そして特記すべきは・・ 広場を片付けて家路に
ついたその時 突然のように大雨が降って来たのだ 

その時 ふいに涙が 堰を切った様に流れた。
奇跡ってあるのだな・・と実感した。自分の体の周りが温かいもので
覆われていると感じて 呆然としていた。

文庫の記念行事に たんぽぽ文庫の人たちが ジュウタンや
机など 歩いて運んでくれた。 2キロ近くある。

狭い空間を椅子にしたら幾人も入れない。
お座りして40人の人が参加していた。

行事は 文庫の誕生日と、七夕と クリスマスが行われた。

その様子は次回へ

詩

佐久間さんは 名古屋で福祉大学を出られて 
北海道へ福祉の仕事がしたいと やって来た。 
なかなか就職できず 文庫へ熱心に参加する若者の一人だ。
いまはどうしているのだろう?

 2015_03_25



ふきのとう文庫日誌より・・・ 1973年 11月 27日
 
ふきのとう文庫の第一日目だ。 先日 雨の中小林さんが
「これで良いでしょうか?」と、中川宅へ運んで見えた35冊の本を
ザックに詰めた。

**************

*当時 若者が旅行時 横幅の広いザックを背負っていた。
それを 蟹さんとか蟹族とか、世間では言っていた。

**************

蟹族のザックに本を詰めて背負い 折からの氷雨で傘をさし、丘を下った。
丘から見える海は霞がかって さらに遠くに見えていた。

この中にある本が、大きなふくらみとなって、子らの心を温め得るでしょうか?
「おおきいおおきいおいも」の読み聞かせをしました。

色々な方が 日誌へ寄せ書きをしていた。
捜したが、見つからない。大学ノート2冊までの記憶があるのだが。

小林さんと 教育長や 市長に会った。
教育の機会を 長期入院中の子どもに与えて欲しい。
退院したときに 元の学級へ戻れ、同じように進級できる保証が
欲しいと思っていた。

私自身 小学校一年の時、はしかと肺炎が重なり三学期全く登校できず
中学校一年の二学期は 肺結核のため休校した。

病院での教育の機会は ちえみちゃんや自分の思いと重なり
熱心に語ったと思う。
「六花さんは 政治家向きだね」と小林さんがからかったのが印象に残る。

翌年の新学期より
病院の隣にある 量德小学校の分級として スタートする。

野戸先生が着任される。 狭いプレイルームの教室で
文庫は居場所がない状況になるが 徐々に野戸先生が授業の合間に
本の貸し出しをして下さり、 長い入院生活を余儀なくされていた子の
お母さんがお手伝いをしてくれた。
小林さんは間もなく ご主人の転勤とともに札幌へ行かれた。

何かの行事の時にだけ参加して 私はたんぽぽ文庫に専念した。

************

文庫を 夜にしたのは
「小樽ふきのとう NO1 」によると 1980年 4月からだ。

NO1.jpg

筋ジストロフィーで筆圧の低い 成田正憲さんの文章

*********

皆様 こんにちは。毎度おなじみの色メガネの あんちゃんです。
これから時々 顔をだしますので あんまりイジメないでください。
よろしく!

 彼は 札幌から参加してくれた。

************


夜の文庫は 子どもたちにとっては待ち望んでいたことだった。
ベッドで、涙を浮かべて待っている小さな子もいた。

ボランティアの巾も広がった。
勤務先から 若い人たちが 学生が 参加した。
小樽からだけではなく、札幌からも参加、筋ジスの青年も札幌からだ。

思いがけない充実した時間を 参加した大人も持てたようだった。

1980年 7月20日発行

NO2より
  
入院中の子どもたちも 
たんぽぽ文庫が行う 東南アジアの難民の子どもたちを助けようと 
学級の五人と先生が お小遣いを出し合った。

外泊して 次の日の子ども市に参加した子もいた。

NO2-2.jpg


二つの文庫が交差することが 子ども同士が助け合い
思いを一つにすることが これから先 幾度も起こる。



 2015_03_25




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プロフィール

Author:六花
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心の中にパートナーが
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