友に分けようと、ローマンカモミールの苗を掘っていると
エンジン掛けっぱなしのままで 家の正面を向いたまま車が動かない。 
中の 男女二人の視線を感じる。
車のナンバーを暗記して 玄関に入ると 動き出して去る。
気持ちが悪い。

「しばらくは 電話などに、注意しようね」と 話す。

屈斜路湖畔のキャンプ場 去年整備したそうで
シャワーなど付いた 綺麗な建物も昨年建てた。
野の花情報も いきもの情報もある。

     イランカラプテー

     和琴キャンプ場2

     フリーサイト 大人 ¥1000円 子ども ¥500
     アラ・ラ・・未だ雪有るわ~ワンクリックして見てね。

     和琴キャンプ場1

湖の写真撮影にきっといい。 無料の露天もあるし、
少し歩くと メチャクチャ熱い湯も有る。公浴もあるし 
日本一美味しい ジャガイモ団子もある。釣りも ボートも楽しめる。 
以上は頼まれても居ないのに宣伝だ。

この花の名前が不明・・雪解けと同時に咲き出し、霜が降りる頃まで咲く
コメント欄を閉じているのにあつかましいけれど・・どなたか教えて頂けたら

     ?の花

クリスマスローズ この株だけ生き残る。やはり綺麗に咲く花は弱いのか
と書けば、健気に咲くこのお花に失礼だと・・反省 
     
     クリスマスローズ


 2015_04_30



昨日の夏日と違い、柔らかな暖かさで、無風状態なので予定通り
屈斜路湖プリンスホテルへ出かける。
冬期間はお休みのこのホテルは、ようやく眠りから覚めて
4月25日からオープンした。

昼食バイキング・・11時半よりラストオーダーは2時
あらためて 取り寄せた食べ物は・・こんなに少ない・・
とにかく各種食べ物は豊かにある。

     えぞをが選んだもの。

     屈斜路プリンスホテル3

      六花は味噌ラーメンを食べている。

     屈斜路プリンスホテル1

勇気を出して 初めてクレープを食べた(バナナ・チョコ)
生クリームが嫌いなので・・チョット失敗えぞをは 手伝わないと言うしね。
さくらのゼリーがとても美味しくて!クレープを食べずにそちらを3個食べれば良かった!

     桜のゼリー

六花はこの後温泉へ・・セット券1780円 食事だけは¥1400円
イランカラプテー
旅行者は必ず・・JAFカード持ってね。 「JAF割りお願いします」は
何時でも有効で お安くなります。 以上は 誰にも頼まれない宣伝だ。 

***********************

さて気が乗らないので 憂鬱である。 花さんの資料はどうしたのか?
書かずに終えるわけにはいかない。

Tさんは 花さんが亡くなって間もなく開業された。
光家さんは 小樽の桜町の市営住宅から 札幌へ転居
何度か 小樽の六花の元へいらした。 ひっそりとして
寂しそうで・・
札幌の家に 彼の居場所があったのかと ふといま思う。

花さんが亡くなって8年後 光家さんは花さんのもとへ行った・・
資料は六花の手元にあったが 私たちも小樽を去ることになる。

どうするか? 迷いつづけて やはりTさんにお預けしようと
結論を出す。
小樽文学館へ渡そうという気にならなかったのは
設備も人材も貧弱過ぎると判断したからだ。(いまは違うだろう。)

 休院日にお尋ねするとTさんへ手紙を出しておいた。

怒った顔・・厭な顔・・軽蔑した顔・・そのいずれでも無いが
少しづつそれらが混じり合った 拒絶する顔で玄関に出て来たTさんは
母のことを 「あの女」と言った。あしざまに言った。

こころが震え、ちぎれて 不覚にも言葉を失ったー
重ねて 「お宅に会った後で、父があなたのことを怒っていた。」
と話す。 決定的だった。 資料を置いてえぞをと二人で何も言わず帰って来た。
と言うより玄関払いをされたという方が適切か。

後日 Tさんから手紙が届いた。「わび状」である。

家の中に通さなかったわけを書き、(取り込みがあったとか)
遠くからわざわざ 運んで来てくれたことの礼を述べ。
「よくぞお返し下さって ありがとうございます」
あれから 全部に目を通したこと。驚いたこと。
彼にとって小樽は故郷、書かれては困る事が一杯あったろう。

私は 母をどんな理由があったにしろ「あの女」と連発する
息子に縁は無い。
また ひととき、光家氏が怒っていたとしても 何度も訊ねていらした
その後の それ故に相手を身近に感ずる心の軌跡を
とても大切なこととして 話して上げる親切心も 六花には無い。
返信はしなかった。
昭和58年 失意の内に 我々も小樽を去った。

どれだけ時間が経過しても ふつふつとわき上がる怒りは
自分へ向けられた怒りでは無い。

「少しの余裕があれば 10円でも20円でもTに送金してやりたい」
清貧に甘んじながら そう話す花さんの声がいまもリフレーンする。
御夫妻は無償の愛をTさんへ送り続けていた。

********

資料が、その後どうしたのか不明。たずねる気持ちも無い。

ようやく書き終えた。 
辛い作業だった。 此処に書いてきた事柄が全部では無い。
言葉を選びながら 書くことのしんどさが有る。
もしコメントされても 返信出来ないだろうと・・全部の窓口を閉じた。
近いうちにコメント欄は 開こうと思って居る。
またみなさんと おしゃべりがしたい。

次に書く方・・  忘れ得ぬ人は・・福井達雨先生だ。
まだ御健在だろうか? 

屈斜路湖にある露天風呂 さすがに入っている人はいない。
湯加減最高

露天風呂










   


 2015_04_28



蔵前光家氏への返信

お手紙読みました。 私なりに良く分かりました。
ただ私としては、そこの部分を素通りするわけにはいかず
知ったことは 大変良い事だったと考えています。

その事実を知ったとしても そこの部分を無かった事にするわけにはいかず
それを知ったからと言って、私に 花さんへの偏見など
生まれようはずもありません。
むしろ素直な言い方をすれば、花さんがますます好きになったの一言に
尽きるでしょう。

ただ花さんの文学へ戻り、たどり、いまへ何が続くのか解き明かそうとするなら
その部分を切り離して考える事は出来ません。

毎日毎日 少しづつ書き残された部分を読み進み
文字にない文字を読み取ったのは私で、私は触れるべくして触れたのです。

蔵前さんは そんな私に質問されて、嘘をつけなかった。
知らない振りが出来なかった。 ただそれだけの事だったと思うのです。
お気持ちはとても良く分かりますので 花さんへではなく
Tさんや蔵前さんへ配慮しなければならないとは、考えているのです。

すると 私も正直手も足も出なくなってしまいます。
ですから先日も申し上げました通り今は蔵前さんのお気持ち次第と
考えております。

     高校ハウスにて・・・蔵前御夫妻様へ

     高校ハウス

     もう少し暖かくなりましたら 勿忘草が咲きます。また載せますね。

私の手元にある資料は、時間が経てば経つほど 小樽市にとっては
大切なものです。
例えば 国松登氏夫人に触れている部分、森本光子さんの手紙
松田解子さんに当てた手紙、宮下さんについて書かれた文
槇さんに付いて書かれた部分、それぞれ世に出るには
いまはまだ 時期尚早の感があります。
みな枯れてしまうまで 待った方が良い様な気がいたします。
はっきり言えば 花さんと同じ立場に立たれてから
  *注 (皆さんが故人となってからの意)
これが世に出て、歴史的価値を次代を担う者たちに問われてこそ
平等となるのだと考えるのです。

いま花さんについていろいろな角度からペンを取り
書きたいと思っても とても困難なことが多すぎます。
亡くなった者へも いま生きている者たちへも配慮が必要なのは
蔵前さんの おっしゃる通りです。

私なりに花さんを理解し、こころの中で整理出来たと考えています。
時を流しましょう・・・

因藤さんとは づーっと以前に空白の部分について
話し合ったことがあります。
早速お手紙にしたためて、外部には漏らさぬように伝えておきます。

蔵前さんが、先日お話のように、花さんの事をお書きになられる
ようでしたら、Tさんの病院が建ち、落ち着かれましたら
お預かりしている資料はお返ししましょうか?

Tさんが大切に保存してくれるのであればそれでも結構ですし 
私がこのまま保存して置いても良いしと考えています。

秋風が立つ様になるまで、あと二十日ほどと思います。
くれぐれも ご無理なさいませんように。
少し涼しくなりましたら 遊びにいらして下さい。
また、心置きなく花さんのお話をしたいと思います。

花さんは 私に大きな影響を与えてくれた大切な友人だったと
思います。
私も できるなら潔く強かに生きてみたいと思います。

ただうるさいばかりの 潮祭りのレコードと太鼓の音がいたします。
古きよき時代の素朴な祭りに焦がれはじめたいま 
私もまたゆっくりと 過去の人となって行くのでしょう。

一日一日を 大切に生きたいと思います。
                           かしこ

    蔵前光家様              六花

やがて 蔵前さんは Tにとっては何の価値も無いもの
私へ託す旨のお話が有り、 花さんの二人の子どもの
ことは隠し通せることでは無いと了解しました。

数年経ち 女性史の編纂をしていて 調べている内に
浅井花子にたどり着き、彼女の事を触れずに通ることは出来ない
自分が 花さんのことを書きたいという女性が現れる。
しかも電話で、何の前触れも無く。

私が資料を持っていると言うことも知っていた。
丁重にお断りした。 いま思っても不思議な人だった。





 2015_04_27



「風見の鶏」 浅井花子・・より

予防拘禁法の前提として制定された思想保護観察法から
のがれるように 東京から札幌へ向かったサダ子は 
札幌のアカシア並木で特高に 「良く来たね」と
肩をたたかれ、保護観察所に再び行かせられる。
観察所は裏にある浄土真宗のお寺にサダ子をあずける。

お寺で三吉に偶然会う  その様子をこう書いている。

横浜の公判廷以来八年ぶりだった。三吉の顔色の青さ
なんという青さだろう。他の思想犯の顔色も例外なく青白いが
三吉の顔色はまるで塗料の中から引き上げられた様である。
牢獄の中でしずかに座って居た三吉は、保護司の前でも
低い声ではっきりと非転向を声明するという。

大阪時代でも 東京時代でも過去の記憶に見られなかった三吉の
何とひっそりとしずかで淡淡とした顔だろう。何と透明な顔をしていることかー

光家さんは 私が初めてお会いした時も まさにこんな表情をして居られた。

それからも 真珠湾攻撃の翌朝 敗戦の2ヶ月前まで
牢獄へ繫がれ・・「大変でしたね」と私が問いかけた時
意外な言葉が返ってきた。

「大変では無かったのですよ」と言う
「中にいると 何も出来ない。外にいても何も出来なかったでしょう。」
同じ何も出来ないなら 牢獄の中にいる方が気持ちが楽でした」

それこそ何と言うことだろうー 他国を侵略してはいけない 戦争はやめよう
たったそれだけのことで・・生身を裂かれる思いをした人々が大勢いたのだ。
そのことを忘れてはいけない。

     セイヨウオキナグサが一輪咲いたよ!

     西洋オキナグサ
  

************

昨日も書いたが 一層小さくなられて 寂しそうな蔵前さんが
時々会いに見える。
作品を追っている内に・・疑問に思う点が出て来てくる。

「花さんには、Tさん以前にお子さんがいらしたのでは?」と訊ねた。
蔵前さんの顔に緊張が走る。

地雷を踏んでしまったと、瞬間に考えたが 出た言葉は消せない。
それほど蔵前さんは動揺していらした。

それから覚悟を決めて話されたことは・・花さんは 熊本の資産家と結婚
二人の子(男女)を置いて家を出たこと。そのことをTは知らないと。

娘は 結核療養所に入っていた。(そこで亡くなる)
花さんは 時々娘に逢いに行っていたと話してくれる。

息子については 後にMさんから聞いた。
家を出て 浮浪者の様な生活を送り 流浪の末に亡くなったと。

Mさんは言う。 「あなたは花さんの良いところだけ見て来たのよ」
「それでも良いけれど・・書くのなら調べられるだけ調べて真実を
お書きなさい・・」

六花のペンが止まった時だった。
結論から言うと 蔵前さんの考えはこうだった。
「花が隠していたことを、何も洗いざらい表に出して書く事は無い」と

のちに花さんと同年代で親交のあった方は 皆さんが知っていたと分かる。
因藤さんも承知していた。

知らなかったのは自分だけだった・・戸惑う気持ちの末
蔵前さんへお便りを書いた。

その時はまだインターネットも携帯も知らず
個人がコピーすることもそんな場所もなかった時代
六花は 何を考えていたのだろう・・自分でも分からないが
自分の手紙と 徳永直氏への手紙を 手書きで写してあった。

     アネモネ球根の給水・芽出し 

     アネモネ球根

球根から お花が咲くまで幾日かかるのか なぁ~
植えた花は 花でさえ咲かないこともある。

ネパールでM7.8の地震があり 使者が2千人近いと
報道している。







 2015_04_26



花さんは自分でも書いている通り とにかくたくさん書いている。
資料が手元にはすでに無く、六花の書いた年表からピックアップする。

小樽新聞掲載  エッセイ  「勿忘草」・・S・26

手を伸ばして私は勿忘草の細い茎を折った。
死んだふみ子さんのことがなつかしくなった。
(忘れる勿れ) あの人がささやいている様だ・・放浪の心を・・
旅人の心を 忘れる勿れ・・

林芙美子と同年齢 出会った場所は東京の何処か・・

短歌

なまあたたかき六月の雨降り初めて
見るまに濡れぬ幼子もわれと

真心の一つ一つを蹴散らして 運命の汽車走るが如し

雨風のさわぐ音のみこの夜を 君は如何なる心にあるや

運命と君は黙すやこの夜の この沸きかえるわが悲しみも

妻や子の心合わせしあがなえぬ 心というは如何なるものぞ 
                            
                                 はな女
     ピアニッシモ

     タツタソウ
                       タツタソウ

S31年
戦後文壇往来6   八重樫実によると
小説「死」は 浮標に掲載され 新日本文学に転載される。
或いは 八重樫氏は この作品について酷評したのか?不明

転載と同時に 佐多稲子が群像紙上に於いて弁護の論を
張った  とある。

「死」は花さんの代表作と言う方も居て、捜したがみつからなかった。

S・29年 ー上京
村山知義 佐多稲子 松田解子 に会うが 失望して帰樽した様子。
(葉書がある) 著名人の私信が他にも沢山有った。
S47年4月17日 心筋梗塞で死亡・・二時間前まで 書いた日記がある。

花さんは 上京後 帰樽してから 迷いをふっきり
地方紙や 同人誌たけやぶ 浮標 新日本文学などへ書いている。
切り抜きも未整理のまま 取ってあった。

光家さんは、花さんが旅立ってから Tさんと同居のために札幌へ行った。
行ってからも 「これが出て来ました」と律儀に資料を持参された。
「少しはTさんのために残して置いて上げると良いのでは?」と言うと
 「Tにとっては何の価値も無いものです」ときっぱりと言う。
何か寂しげで 私に会うのは 一緒に花さんのことが話せるからかと・・
見送る背中が なお一層小さく見えた。

*************************
  
     弔辞   

蔵前さん 今あなたの御霊前でお別れの言葉を申し上げようとは
想像だにしなかった事でございます。

17日の夜、ご主人様からお電話であなたが胸が苦しいと言われ
冷や汗をかいていらっしゃるとのお報せを受け主人が往診に出かける際
何か不吉な予感を受け助手席に同乗して お宅へ向かいました。

運悪くトンネルの所で工事の為ストップさせられそのもどかしかったこと。
お宅について聴診器をあて一分もしたでしょうか・・ご臨終ですとの
主人の声に我が耳を疑いました。

あのふくよかなお顔は眠るがごとく安らかで布団の上にあげておられた
やわらかな手はまだ暖かく とても信ずる事が出来ませんでした。
でも赤い唇から血の気が失せ
あのお元気な懐かしいお声を聞くことが出来ませんでした。

不吉な予感が現実となった時の驚き、
こんな悲しい事があってよいものでしょうか

旦那様を尊敬し、仲むつまじいご夫婦でいらっしゃったのに
御主人一人を置いて突然お亡くなりになるとは。
息子様もりっぱになられこれからと言う時だけに、惜しみて余りありません。

あなたとの交際は、戦後民主主義が言われ出した頃かと思います。
婦人有権者同盟の集まりで、堂々と御自分の意見を述べられ
その内容、お考えの立派さに接した時でございます。
何もわからない私に、世の中の事や政治のことなど
話して下さり、どんなに啓蒙された事でしょう。

またあなたは こよなく文学を愛し、読書は勿論小説や詩などを
お書きになり、繊細な心の持ち主でいらっしゃいました。
息子様のご結婚の際、花嫁に捧げられた素晴らしい詩は
今も忘れることは出来ません。

また次代を担う子供達を愛し、暖かな思いやりのあるあなたは
私の子供も含めご近所の子供達に紙芝居や幻灯をよくして下さいました。
あの喜びは社会に巣立った時、懐かしい思い出となるでしょう。

またあなたは 自然や花を愛し、心のきれいな方でいらっしゃいました。
あでやかなものでなく、ひなびた素朴なものを好まれ
私の亡き父に手作りのお花をよくいただいたものです。

芸術にも造詣が深く去年の八田直之の「かの子繚乱」をご一緒したとき
あなたの奥深さに ただただ感心させられました。

またお年に似合わず 大の勉強家で一人息子のTさんが
医学の道に進まれたとき、医学の話題が出たときに話しが出来なければと、
医学雑誌を借りに見えられたのも遂この間のように思われます。

余りにも偉大で立派でいらっしゃったあなたの事々が
走馬燈のように思い出され 
心の友、心の師を失った悲しみで一杯でございます。

最後に蔵前さん 私ども友人の深い感謝と限りない惜別の悲しみを
お受け取り下さい。
そして永く私どもの胸中に生きることを思い
安らかに永遠の眠りにおつき下さいませ。
さようなら

     昭和47年4月17日   友人代表 阿久津桂子




 2015_04_25




     ぜんまいののの字のの字の寂光土     川端 茅舎 (ぼうしゃ)

この俳句に出会ってから現在に至るまで その時に受けた感銘を
忘れない。
この風景は 想像の世界ではない。
地面に眼を凝らすと胎児のように眠って居て 神秘的であり
この静寂を 誰もこわしてはいけない。

     皎々と山々暮れる蕗のとう           えぞを

     ************ ********* 六花 記

俳句が出来ないと言う。
そんな日も有る。

花さんについて書いているから 「小樽文学」が側にある。
本人へ断って 詩を書いて置こうと了承を受ける。

     街        えぞを

     ポロの街は夏だった
     私は私の心の中の
     黒い確かな道だけを歩いた
     屋根ひさし深く埋もれて
     サルビアが咲きそろっていた
     私は屋根の上から
     鉄橋の上を
     コンパクトの鏡のなかを
     自由に歩いた
     その道だけが私に許された
     わずかな端緒であった

     汗を売る街は
     汗を造るに相応しい夏だったが
     夜のきざはしに立って星空をのぞき込むときは
     喪心した声が落ちて来て
     意外にやさしく私の喉を打った
     かなしい横顔でかなしい新聞を読み
     かなしい曲を食べて
     哀しく眠ってしまう隣人を見た
     藁くずよりかなしげな鳩たちを

     朝ごと おびただしい小鳥の亡骸を
     昨夜こころ落とした窓へ掃きすてる
     
     ポロの街に永い間住んでいた
     お前へ手紙を三度書いた
     それだけ二人の距離は遠くなったが
     夏  お前は私を両腕からずり落とし
     お前はふしあわせを落とした
     私もしあわせを落とした
     それでも私は
     転落すまいと
     この街の黒い道を歩いた

    1963年(昭和38年) 7月5日 「小樽文学」1より
     
     *********  **********

ふと 尾崎豊が生きていて、彼がこれにメロディーをつけて
歌ったら どんな風になるだろうと・・ たわいも無いことを考えた
そんな日もあっていい。 




 2015_04_25



昨日からのつづき。 (昭和28年に書かれた 手紙)

私の現在生活している場所は 鉄工所ですが、この工場は
戦前は小さい工場でしたが 戦争に依って膨れあがって戦争当時は
十人ほどの従業員が二百人以上にもなり、機械の数も増え工場の敷地も
大きくなって行ったのです。

*********この部分からは 大筋を六花が書くことにする。****

刑期を終えて帰宅した 花さんの夫・・光家氏は
この鉄工所の工場長として・・元の位置に納まる。
しかし 戦後は 労働運動 組合運動など 労働者が生活を守るための
運動が起きて 次第に鉄工所は、追い込まれ 縮小されます。
光家さんは 社長と従業員の間に挟まり微妙な立場に追い込まれて行く。

************* *********

以下手紙へ戻る 

戦後八年 苦しさも底を突き、喰うか喰われるかのぎりぎりの線に
押し込められた現在  妙に心が落ち着いて 筆をとりはじめました。
勿論文学的修行というものは持病の様なもので
地方新聞などにはずっと書きつづけていました。

----------------中略--------- 六花

づーっと中小企業について書いているが、 光家氏が
この手紙を出したのかどうか不明としたのは
この点かと 六花も考える。

----------------以下文中へ----------

「地下道の春」は あなたの 「太陽のない町」の感激から生まれた
一微粒子の様な気がします。
私のあの時分の追い詰められた 少しの余裕のない気持ちでは
あのテーマを活かすことが出来なかったと今にして気がついています。

----------------中略---------------

あなた様が 私と同じ熊本の人であり、植字工であったことを思いますと
何故か肉親的なあたたかさを感じまして
それがあなたの作品に対して 私がひかれる理由であります。
勿論 職業的な地域的なせまさであなたの作品を限定するのでは
ありませんけれどー
(花さんも12才の時から 文選女工として 十時間労働に鍛えられて
きたか 弱らせきたかわかりませんが、私の心の故郷は労働組合運動に
ある様で、労組運動に引かれるのは、私の宿命とでも申しましょうか・・と書いている)

終わりにあれからの長い年月がたって どなたの消息も存じませんが
渡辺順三御夫妻様は御健在でしょうか
すばらしい詩を書いていらっしゃった 金龍斉さんは朝鮮戦争が起って
どうしてらっしゃるでしょうか
島木健作さんの死は風の噂に伺いましたが、審議は私にはわからないのです。
松田解子さんが 花岡事件をお書きになったことは
社会タイムスで、知りました。
また一番お世話になった、 村山知義さんが、漁村の問題と
取り組んでいられることも 社会タイムスで知りました。
みなさんの御消息を伺いたいと思います。
おついでのときにお会いになりましたら よろしくお伝えをお願いいたします。

さて昨日はこちらに 前進座がきて「屈原」を上演しました。
大入り満員の盛況でした。
尚最近こちらの中央バスが三十年振りで全線ストを十日間
強行して勝利した事件もあり、これで北海道の一小都市である小樽も
いろいろ波立って居ります。
東京は問題の中心点で生起するさまざまのうずまきの中で
みなさんまだお忙しいことと存じます。
お体を大切にご健闘の程をお祈りいたします。
これで第一信を 私の第二の出発の決意を申し上げたことにして
終わらせて頂きます。
どうぞみなさんによろしくお伝え下さいませ。

***********
六花後記

長い手紙だった。 これは作品にするための下書きではなかったか?
と思う。 全部を写さなかった。 書かれた内容で相手はすでに亡いものの
ご親族がおられることも考えなければと思ってのことだ。
もしこれを読まれた方の中に 資料として欲しいという方が居られるのなら
差し上げても良いと思って居る。
断捨離は少しの間だ待つ。
また 全部を書き終えた後 連絡のために コメント欄も開示する。

花さんは 上京もして 失意の内に帰ってこられた。
それ以後も小樽を地盤に創作活動は続けられている。

彼女の自伝を書こうとしていた六花は 念入りに年表を作成している。
その時に幾つかの疑問が生まれる。
蔵前御夫妻が 語りたくない過去の部分に触れてしまう。
六花は 地雷を踏んでしまったのだ。
しかし 書くからにはそれを隠し通すことは出来ない。
六花もまた 少し意固地な所があったのかも・・若さゆえか・・
いまなら もっと違った方向の選択もあったと 少し後悔している。

     平和

 2015_04_24



2015年 4月23日  天声人語

天声人語

********************

徳永直 M32年~S33年 享年59才
wikipedia に詳しい。

同郷であった 花さんは S28年彼に当てて手紙を書いた。
その写しである。 

先だった浅井花子の あらゆる文学に関する
或いは 交友に関する資料を 夫である蔵前光家氏は全部私に託した。
というより 資料の全部を  私に下さった。
段ボール二箱分はあった。重い責任を負ったと思う。
本来なら 文学館などに寄贈すべきものだった。
多くの文人の親書 葉書や手紙があった。
花さんの文学作品、詩や短歌 エッセイなどが含まれ、
時代の証人たり得た。

以下は 西洋紙9枚にわたる「徳永直」に当てた手紙である。
光家氏は 徳永直氏に この手紙を出したかどうかは、不明であると言った。

************** *****

その後時代の激しい風波の中にも お元気で御活躍の様子
影乍らお伺い致しまして、心強く存じておりました。

あれから 14,5年以上も経ったのでしょうか
はじめてお目にかかったのは 間宮さんのお隣にあった渡辺順三氏の
お宅で真夏の頃であったと記憶しております。
私たちの懐かしいソビエトのマキシムゴーリキーの死が伝えられ
文学評論がゴーリキー追悼号を出した頃のことであったと記憶して
おります。 恰度文学発行人 大竹博吉氏が逮捕された前後のことで
落ち着かない気持ちで、ほんの数分お話ししたと言うより
御挨拶申し上げたと言う方が適当な様なーお会いのしかたでした。

太陽のない街以来 どんなにお目にかかりたいと思い
文学評論に載せて頂いた 私の 「地下道の春」について
ご親切な批評を頂いた事についても、申し上げたいこともあり
さらにプロレタリヤ文学につながるものの一人として
あの運命的な分岐点に於いて御指導を受けたかったのですがー
あの時そんな暇はなく あなたは慌ただしく自転車に乗って
どこかへ行ってしまわれました。
私とてもじっとしていられない気持ちで家に帰り
そのまま北海道へ旅立ってしまいました。

青森から函館に渡る船の中で 偶然見た新聞に
日支事変ボッ発 の記事を見まして、何故かこのまま
東京へかえれなくなると言う気がしましたが、その予感が当たって
私は北海道に生活の根を下ろしてしまいました。

一日毎に言論の自由(その他の自由もですが)が
縮められ それが皆無となった時に、大東亜戦争が起こりました。
12月9日の朝、深い雪の中を、 私の夫が 予防拘禁法によって
検挙されてから 私も個人的などんなつながりにも用心しなければならないと
(その以前からですが) 思い みんなと消息を絶ってしまいましたし
絶たれてもしまいましたーがみなさんたちはどうしていられるだろうと
いつも心配して居りました。
何百人の人たちが検挙されたとは聞きましたが
それが誰方であるか 知ることも出来ませんでした。

さて戦争が終わって、治安維持法もなくなり天下晴れてどなたを
おたずねしても被害を与え合う様なこともない状態になりましたが
現実の錯綜する渦巻きの中で私の気持ちが がんじがらめになり
お便りを書くことができませんでした。

つづきは 明日へ・・

     平和をまなかいに

     平和2

 2015_04_23



随筆 ゼロの感想より

小林多喜二は死んだ。悲壮な残虐な死である。 だがそのゼロは
0点 数百千万のプラスになっている。
それは無限に繁殖してゆくゼロ、プラスの林で有る。
美しいゼロ、プラス 宮本百合子もまたそうである。

戦争で死んだ膨大な数のゼローそれはその何百千万倍に
戦争を否定するゼロ、プラスになる勢いを示している。
歴史とはゼロ、プラスの流れではないだろうか。 ~~後略

********************

忘れ得ぬ人・・2で書いた 因藤荘助さんが
多喜二についてこう書いている。

多喜二はひょうきんだった。因藤荘助は言う。
昭和4年の夏だったと思う。その頃貯金支局の事務員であった僕は
友人のKと二人で拓殖銀行に勤めている多喜二のところに
「戦旗」・・・・を受け取りに行ったことがある。

それから 多喜二が小柄でいかにもすばしっこい動作で仕事をして
居る様子が語られ 側に居る女性にも冗談を言い
小真面目な官庁の雇員であるぼくらは そんな多喜二を
目を丸くしてながめていたものだ。
長くなるので割愛したが その他にも 記録の中には
同級生や 先輩後輩 伊藤整なども 多喜二の思い出を
語っている。
何処を押しても 拷問の果てに殺される要素が見当たらない。
ごくごく普通の人だ。

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     小さなラブソング

     クロッカス


小樽文学 2 より   短編・・他人のこと

文中より
その翌朝 雪が降り出していた。
雪を見るとケイ子は 今日が十二月八日であること、
十八年前 大東亜戦争のはじまったあの日であることを、忘れていた
ことに びっくりした。

寝込みを襲うというのだろう。 午前五時 特攻達が押しかけて来た。
特攻に取り囲まれて三吉は窓の下で 一寸立ち止まり、まぶしいほどの
笑顔で、ケイ子を見上げた。
「私も笑っていたろう。 三吉に負けない位のまぶしい笑顔を見せていたろう」

その日雪は降りつづけていた。 一冊の本も残さず持って行かれ
ガランとした感じになった家の中で

「カラス 何故泣くの カラスは山に かわいい 七つの子が あるからよ」

子供を抱いて童謡を歌っているより仕方がなかった。
あの痛切な忘れがたいと思ったことも うっかり忘れかけていた。

隣人が 石炭泥棒の詐欺罪で取り調べを受け
警察署内で自殺をしたと言うことを書いていている。
 
その中で 花さんは 夫とT君の事を 書いたのだ。
連行されて 終戦二ヶ月前に刑期を終え 蔵前光家氏は出所した。 
ぼうやを抱えて 貧困のどん底にいた花さんは
官権の目を逃れる事に懸命であったし、ひもじさのあまり
ついに「パンを買って」と知人に懇願したりするさまを 書き残している。
私小説ではあるが 生きながらえるぎりぎりの所で
寒さと空腹に襲われていながら T君をまもることに命がけであったろう。

あすは 徳永直氏に当てた手紙を記載する。 
花さんに寄せる思いの深いほど 疲れてしまい でも・・あしたへ。
六花には あしたがある。

今日は 町議選へ行く。 不在者投票が始まった 晴天だったし
やはり こんな風になっても投票所に行くことに意味がある。
と考えて 封書投票はしなかった。

息子が帰宅 「子供達の間で インフルエンザが流行って休校児童が多い」
と話す。 季節は何処まで狂っているのか・・札幌11日早いさくらの開花
とTVで。
 2015_04_22



同人誌「小樽文学」の会合で 初めて 浅井花子さんにお目にかかる
(明治36年-1903年~~昭和47年ー1972年)
お会いしたのは、昭和38年頃だったので 花さんは50代後半だったろう。
彼女の文学歴など知るよしも無く ただ 少女のようなおかっぱ頭の
花なら 「勿忘草」が好きという 可愛いい女性だった。

彼女が亡くなってから・・人づてに聞いたのだが 第一回目の芥川賞に
ノミネートされていた。びっくりでは無く 驚愕したと言えよう。

「泥濘の春」と 「有る夫婦」を川端康成に推挙されている。
その時の入選者は 石川達夫だった。

そんな過去を 一切話す事が無いまま・・彼女は
小樽文学へ 三作品を残しただけで 亡くなった。
なぜもっともっと多喜二のことなど聞いておかなかったか?
と悔やまれて為らない。

少し前に戻ると・・同人には女性が二人だったことも有り
ひどいつわりで 食べ物が殆ど喉を通らなくなり、日に日に痩せてきていた。
気分転換にと 私は花さんの自宅を度々訪問した。

つわりのために 何も食べられないで居る私に 花さんは火鉢の炭の上で
食パンをこんがり焼いて バターを付けたりジャムを付けたりして下さった。
飲み物は紅茶だった。 それのみの食事の何と美味しかったことか

どんな話をしたのかは覚えていない。
ただ狭い市営住宅に 家具らしき物は無かった。
勿論電気製品も見当たらなかった。
テーブルも木箱をひっくり返して 布がかかっていた。
多分火鉢の上で 煮物などしていたと思う。
本箱も 木箱で・・ビックリするような高価な画集があった。

「お金があったら 少しでも Tに送金して上げたいと思って居るの」
そう言われて・・倹約、節約の日々を過ごし、医学生だった息子 
Tに、仕送りをしていた。 そんな中での食パンは 六花にとって
大ご馳走で かって食べたものの中で、1番の席を未だ占めている。

     ********** **********

     チュウリップと ガーベラ・・半切

      ガーベラとチュウリップ1

     *************  **************

小樽文学に 浅井花子の 「ゼロの感想」 随筆が載っている。

~~前略  自分のゼロの内容は分からないが、私の子供が生まれてくるまでの
ゼロから一プラスになるまでの 何と溢れてくる様な内容ー

 治安維持法 北支事変 北海道の秋風 豊平川に咲き乱れる
コスモスと愛国行進曲 そして雪に埋もれた苗穂の暗い小さな町
激しい雪解けと泥濘 防空演習 逃亡 予防拘禁法 裁判所 国家
東条 大東亜戦争~~後略

花さんは ただ単に単語を羅列したわけでは無い。
その時代に生きていた者たちは 等しくこの言葉の重みを知っている。
その時 子どもであった私でさえ。
    ********** **********

このシリーズを書くに当たって 拍手のページも閉じた。
深い意味が有るわけでは無い。

とても辛い作業をするにあたり・・毎日資料を整理しながら 自分を
もっともっと追い込もうと考えている。もっと集中したい。
それが バトンを受け取った者の勤めかと考えている。

表現者としての才能が欲しい。 書き残す事が出来るのか?

     春の詩 (うた)・・半切額

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春の詩

使用花・・さくらは、チシマザクラ、 菜の花 ヒメイチゲ エゾエンゴサク
 2015_04_21




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プロフィール

Author:六花
一人でも 楽しく生きて行こう。
心の中にパートナーが
いるのだから・・

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